論理的であれ、理性的でなく

たまに、論理的(筋道だてた説明を欲しがる/したがる)と理性的(本能や感情に流されない)が混同されがちな気がする。

論理的ってのは感情押し殺せって意味じゃなくて、感情すらも、その原因は何で、ならどうすればどう変わるか考えるってことよ。

食欲

というのも、円満レトルト生活 - ++C++; // 管理人の日記なんてものをこないだ書いたわけですが、これに対して、「生物としての本能持ってるの?」などと聞かれる機会があり。

自分としては、おいしいとつい食べ過ぎるとか言ってる人よりも、栄養素の効率的な接種手段を求める自分の方がよっぽどピュアに本能に忠実な気でいるんですけども。

栄養の不足に対しても、食いすぎに対しても生命的な危機感を感じるというか。栄養足りてないと食欲がわいて、太り気味だと食欲控えめ。自分の好きなタイミングで、好きなものを、好きな分量だけ食う。本能的な行動だと思うんですけどねぇ。

群れを作る動物の本能

で、人の本能として、「楽したい」という気持ちと「人の役に立ちたい」という気持ちがあって、この2つは否定しちゃいけないことなんじゃないかと思います。その帰結として、以下のようなことはやっちゃダメ。

  • × 何の役に立つかわからないことに注力させる
  • × やることやった上での休憩を許さない

ぶっちゃけていうと、楽して儲けてる人すら否定しちゃだめ。儲かってるということは需要があるわけで、需要の先には何か役に立つものがあるはずで。むしろ、「楽したい」と「人の役に立ちたい」が両立している理想的なケースととらえるべき。(もちろん、現実的には、それが楽に儲かると周りも気づくことで参入者が増えて、すぐに楽な商売じゃなくなりますけども。)

「働かざる者食うべからず」という言葉も、きっと、「楽するな」と解釈しちゃダメで、「人の役に立て、人を楽にさせろ」と解釈すべき。もしこれを「楽するな」と解釈するなら、たどり着く先は「仕事してるふり」でしかないと思う。理想形は「自分も含めて、みんなが楽できるようにする」。

聖人君子

他に普段からよく言ってるのでいうと、「聖人君子なんていない」とか「morale(士気)なくして moral(道徳)なし」とかいうセリフ。どっちも、「まず自分の身の安定なくして他人のことなんて気は回らない」「余裕をなくした人に道徳は期待できない」とかそんな意味合いで使います。

人に理性的であることを求める人は聖人君子を求めますけど、まあ、無理な話ですから。

感情や本能にあらがうのは並大抵の労力じゃ無理で、非効率にもほどが。効率を求めるなら、本能ときっちり向き合って、それを論理的に扱うべきかと。