(将来的に見て)敬語不要論

一昨日書いた敬語に関する話、いくつか補足が必要ですかね。

「今、必要」と「将来残した方がいい」は別の話

「今現在、敬語が必要かどうか」と「将来的に敬語が残っていた方がいいかどうか」は混同したまま議論すると話がもつれるので、まずこれをはっきりさせておきます。

自分の意見は、今はまた敬語使えた方が何かと得、将来的にはほっといても自然と廃れるだろうし、廃れた方が得、です。

問題は敬意を払ってないと思われてしまう方法があること

敬意は、払う方に関してはいくら払ったって払い足りないと思いますよ。

問題はその逆の方で、敬意を払うすべを持つってのは、同時に払わないすべも手に入れちゃってるようなもの。

あと、人間ってのは「知らないことは認識しづらい」生き物なので、敬意を払う道具を持たことで初めて敬意の有無を気にし出すんですよ。元々それがなければ、おそらく敬意がこもってないとか言って他人を不快に思うこともないんですよ。

敬語使わない若者を不快に思う前に、それを不快に思ってしまう自分を見つめ直した方がいいんじゃないかと。

すでに日本の風土は敬語とマッチしていない

敬語ってのは、ぱっと見で身分が分かるような階級社会で育って、年功序列文化で守られてきたものだと思います。

年功序列な上に、会社は生涯勤めるものだった頃には、年齢の上下とキャリアの上下がほぼイコールですし、序列のよく分からない人が職場に少なかったでしょうけども。

今は転職率高くなってて、年とキャリアが必ずしも一致しないし、年齢も前歴もはっきりしない人と働くことが増えてるわけですよ。

敬語かどうかを使い分けるってのが難しくなっている。メリットよりもコストの方が高くなっていると思います。

ほっとけば廃れていくことに抗ってはいけない

風土的にすでに合っていないなら、多分ほっておいても敬語は廃れていくと思います。

僕はさらに、その流れを促進させて早々に敬語を廃れさせた方がいいと思っていますが、流石に自分が極論言ってることは認識しています。

でも、逆は絶対にやっちゃ行けない。敬語が廃れて行くのに抗うようなことはしちゃダメ。

ら抜き言葉のときみたいな、日本語の乱れがどうとか変な理由を付けて、若い世代の文化を否定しちゃいけない。

ダブルバインドの解消

「早々に廃れさせた方がいい・廃れるのを促進させた方がいい」というのの理由は、変化の過渡期にはダブルバインドが生じやすいから。

  • ある人は「使え」という。ある人は「使わなくていいんじゃない」という。
  • 使ったところでコストの割にメリットがないのに、使え使えとうるさく言われる。
  • 「年上には敬語」。だけど、「too personalな質問は失礼にあたる」。
    • 特に女性相手のときに。女性の社会進出が増えて、「女性に年聞くなんて失礼」と「年上に敬語」が両立しなくなってる。

人を育てるときに相反することを同時に言うと、育つものも育たなくなりますよ。